「全員に経営者目線を持て」 と何が違うのか、ソフトウェアエンジニアのビジネスと市場価値と説明責任

「なぜこんなに必要?」 にうまく答えられなかった当時

当時の役員から組織の頭数に対して、そんな旨の問いを投げかけられたことがありました。ポジションの内訳や開発規模に対する"必要性"を中心に話したはずですが、わざわざ内製で安くない人件費を投じている文脈で期待される +α の成果に対して十分な説明を行うことはできなかったように思います。

技術畑でない役員と話すにあたっては当たり前ですが自社の経営目標とビジネス一般の理屈にチャネルを合わせて話をする必要があり、当時は自身にそれが求められていたことを改めて意識するタイミングでした。

相応の学習や技術の乗換をしていれば Tier 2 ソフトウェアエンジニアの価値が直ちに崩壊する可能性は今のところなさそうですが、作れます!使えます!以外で説明可能な「自身のバリューのテーマ性とキャリア」の獲得が市場価値の持続的な向上に不可欠であることの確信が深まります。 ソフトウェアエンジニアの市場価値または報酬傾向の変化と覚え書き

これも結局は同じ話に繋がっている認識で、経営も各種の意思決定の中で膨れあがったソフトウェアエンジニアの人件費に対する納得を欲している部分もあるのではないでしょうか。

ソフトウェアエンジニアとビジネスの距離感

近年(本稿の原型は2022年頃のテキストであることから時差が大きくなっている)、ソフトウェアエンジニア界隈での「事業貢献」や「ビジネス視点」が度々論じられ「技術は手段に過ぎない(キリッ」がますます幅を利かせているように感じます。

手段と誹られようが無邪気に技術を論じた Twitter もとい X はどこにいったのか。

それは 「全員に経営者目線を持て」 と何が違うというのか

ソフトウェアエンジニアの事業目線・ビジネス寄り添い論を見かけるたび「全員経営者目線」ほどの風当たりの強さは感じないのを不思議に思うことがあります。

これまでの時代がエンジニアファーストだのと牧歌的すぎたと自覚できる層、最初からビジネスに携わる手段としてソフトウェアエンジニアリングに参入した層、さまざまな背景から一定の合意形成はされているのでしょうか。

「事業が分かる自分と分からないお前ら」 に耳を貸す必要はない

斜に構えて見るとマウンティングの一環としてこの話題を持ち出している手合いも少なからず存在しますが、分かる/分からないを単純化してその是非を論じたがっているようにあなたが感じるならば耳を貸す必要はありません。そのように単純な二元論であるはずが無いからです。

作ることが本分であることから目を背けてはいけない

ソフトウェアエンジニアリングのアウトプットは何にせよ作るという行為を要します。もしビジネス判断とうそぶいて稚拙なものづくりに甘んじているようであれば確たる成長は望めないでしょう。

どこかに物理的な限界はあることは理解しますが、様々な制約がある中で最善を尽くし続けることでしか自分が正しく拙速を成しているのか、単なる稚拙に甘んじているだけなのかを判断するに耐える地力を養うことはできません。

終わりつつある市場価値の青天井

ビジネスの場において他セクションと対等に振る舞えるスキルを持ったソフトウェアエンジニアの台頭そのものは歓迎すべきだと考えます。野趣溢れる SNS ですらビジネスとの距離感が論じられるのは真っ当な成熟の過程にあると認識しています。

お前の価値と、お前が生み出す価値の説明責任

ソフトウェアエンジニアの市場価値の青天井に歯止めがかかりつつある中で「ビジネスと近い距離感でこのように貢献できます」とあなたが語れるのであれば自らの価値を説明する上で強い武器でしょう。

経営者や事業責任者は技術の立場から事業について会話チャネルを共有できる意気軒昂な人材を常に欲していますし、何らかマネージャーの役割であれば求められても当然の素養でもあります。

※ 中間管理職的な技術マネージャーの素養と事業運営の相棒たりえるマネージャー/リーダーの素養が厳密には異なりそうなのが難しいのですがさておき。

自分の仕事をアウトカムに繋げるストーリーテリング

営利に携わるならば誰しも行き着く果ては「ビジネス成果」になるはずですが、アウトプット(ものづくり)はできてもアウトカム(具体成果)との距離が生まれやすいソフトウェアエンジニアの身の上ではビジネスとの距離感だけで勝負できるとは限りません。また技術を通した価値創出がメインストリームであって欲しい願いもあります。

専門性を求められない Web アプリケーション開発であっても、そこにパフォーマンスやユーザビリティの面で卓越した技術があるとか、精通した知識によって組織の技術水準を底上げできるだとか、アウトカムに繋がるストーリー(理由付け)が自他共に明らかであれば説明責任の筋が見えてきます。

これまでも技術による価値創出と真摯に向き合ってきた諸氏はもちろんのこと、多少の安全圏にいた当事者ですら自らが関わることによる付加価値を説明することの責任からは逃れられなくなっています。

手段と目的を賢しく論じるようになってしまうのか

個人的には技術が目的たらんとすることはありえる派ですが、手段でしかない技術しか触れてこなかったのならば、そういうこともあるのでしょう。なんにせよ手段と目的の云々では言葉遊びの範疇を出ないので少々飛躍します。

アウトプットへの責任とアウトカムへの責任には濃淡がある

どちらに責任の重心を持っているかは立場によって異なりますが、スタートアップのような環境では末端に至るまで両方のスタンスを求められることもあるでしょう。マネジメントでない一部の上級エンジニアもアウトカムへの責任を語れなければならないことがあるでしょう。

アウトカムに対するスタンスが求められる状況を想像すること自体は容易いですが、それがソフトウェアエンジニア全員に対して普遍的に求められるかと問えばどうでしょう。そこには違和感があるのではないでしょうか。

技術行使の説明責任

結果論として価値たりえるアウトプットを売上等のアウトカムに変換する行為は個人の中で完結することはほとんどなく、通常は組織の営みひいては経営の責任です。

ソフトウェアエンジニア一般が果たすべきは技術を行使した結果のアウトプットに対する説明責任が第一義です。Why - What - How のどこに責任分界点を持ってくるかにもよりますが、曖昧にアウトカムへのコミットを期待して責任の転嫁を図るようなことがあればあまりにも都合が良すぎるでしょう。

全員が賢しい必要はない

できないよりは、できたほうが良い。それはそうです。

ソフトウェアエンジニアも説明責任とニアリーイコールな位置付けでどれくらいのインパクト(影響力)を産み出せるかは常に意識しながら動いたほうが良いとは思いますが、全員が事業が分かる、事業と話せる、みたいな像を厳に求める必要も目指す必要もないのではと思います。

メモ書きの供養ポエムでした

自分たちになりの "良いエンジニアリング" と向き合っていた頃と比べるとあらゆる場面で "自分たちが作る" ことによってどのような価値がアドオンされるのかを示さなければならないことが増えていると実感します。本当に繰り返しですが。

一方でビジネス云々を引き合いにして「技術観点でしかモノを申さない」「事業都合を考慮しない」 のような個別具体の社内政治かマネジメントの話をこじらせて、悪い意味での "職人気質" をソフトウェアエンジニア一般に適用して公に揶揄するのはフェアではないなぁという気持ちが溢れた頃のテキストの供養でした。

こんな長々書かなくても140文字以内でまとめている方がいらっしゃいました。持ち場を離れるなって良い言葉。


Author

ahomuAyumu Sato

無所属

東京資本で生きる名古屋の鳥類

Web 技術、組織開発、趣味など雑多なブログ。技術の話題は zenn にも分散して投稿しています。

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